もくじ
菊地成孔 vs 町山智浩による映画「セッション」評論対決
「セッション」観たくなったよ!
久しぶりに燃えるバトルを見た。映画評論というよりは、ある年代の批評家やサブカルクラスタの権威に関する話として、僕は非常に面白かったです。ちなみに「セッション」見ていません。これから観に行きます。なのでセッションに関する個別の意見に対してはコメントしません。この対決が面白かったところ、ここからどんな事が見えてきたかをまとめます。
ヘイトと馴れ合いばかりになってしまったネットの世界。こんなリスペクトに満ちたバトルがもっと増えて欲しい。
町山・菊地「セッション」論争の要約
論争の経緯
2015/04/08: 事の発端。「セッション」を菊地成孔が辛辣に批判
2015/04/17: 観客が減るのを危惧した町山の反論記事
2015/04/19: 皮肉たっぷりに菊地が再反論
2015/04/22: 町山マジギレ ( ← 今ここ)
それぞれ結構長文ですよね。大丈夫。読むのがダルい方、こちらにまとめましたよ。
菊地のセッション評・町山へのコメントまとめ
- 「主人公ドラムが下手すぎて話にならん」
- 「褒められ過ぎ。駄菓子みたいな安い映画。大した事無い。ジャズミュージシャンから全然コメントされていないあたり察しろ」
- 「町山さんは、かつてジャズを志し挫折した経験のある監督の作家性が反映された映画と仰る。しかしそうは感じられない。単に挫折のトラウマを持ち込んだだけにとどまっている。音楽による救済を表現するには至っていない」
- 「町山さんは権威。僕みたいな弱者のこといじめないでよ」
町山のセッション評・菊地へのコメントまとめ
- 「クライマックスでは音楽の素晴らしさを美しく表現していて、おもわずガッツポーズが出るような最高の映画だ」
- 「セッションは監督が低予算で命をかけて作ったインディペンデント映画。批判するにしてもやり方というものがある。トランスフォーマーとか超大作ならともかく、そういう批判の仕方は良く無い」
- 「俺のどこが権威?それを言うならあなたも権威。影響力も大きい。そういう批判を書けば観に行くのを躊躇う人や、知ったかぶりの輩が多く出てくる。」
結論①:お二人ともある程度は権威と化しているよ
このやり取りで注目すべきなのがお互いが自分の事をアウトサイダーで弱者であると考えていて、それを誇らしく感じているという所。
町山にはもっとどっしり構えて欲しい
この認識は決して間違っておらず、私自身もお二人のそういう姿勢が好きで、彼らの本とか沢山読んできたわけ。でも結果的にそうやって私のようなフォロワー・読者が増えていくと、自分の意志とは無関係に権威と化してしまう事もある。菊地成孔は2ターン目でこんな事を言っている。
ワタシが言っているのは批評権威の話です。「映画秘宝」に代表される、町山さんが創出された映画の見方。は、今や一時期の「リュミエール」「キネマ旬報」と同等の批評権威であるとワタシは思っています
町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意) - naruyoshi kikuchi INTERNET TROISIEME
これは全く正しい。もちろん映画秘宝は素晴らしい映画雑誌だけど、今やキネマ旬報とか真剣に読んでる人とかいないだろうし、まともな事書けているのが秘宝ぐらいしかないという現実もある。
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それと、映画秘宝を作った町山自身も、映画評論家としての知名度と実力からいえば完全に強者の側だ。毎週昼にラジオの生放送で映画を紹介し、週刊文春その他有名な雑誌で連載、そのどれもが抜群におもしろい。
これは町山がどうこうというよりは、町山以外に実力とタレント性と演出力を持った映画評論家がいない事が原因ではあるが、いずれにしても町山はある層の映画好きから圧倒的な支持を受けている事は間違いない。それを権威と呼ぶのは決して間違った事ではない。
もちろん自分ではそう思っていないだろうし、きっと自分以上の権威から抑圧されているという自覚を今でもお持ちなのだろう。しかし少なくともこういったネット上の映画評に関しては町山の影響力は極めて大きい。菊地はこのことを権威と言っている。
それなら菊地も権威。全くその通り!
しかし同じ事は菊地にも言える。町山も2ターン目でこのように言っている。
それに、オイラのことばかり「権威になった」というけど、菊地さんもすでに権威でしょ。マイノリティだの弱者ぶんなよ! 菊地さんは自分には映画を潰すような影響力はないと言うけど、『セッション』は菊地さんに比べると本当に小さな映画なんだよ!
『セッション』菊地成孔さんのアンサーへの返信 - 映画評論家町山智浩アメリカ日記
菊地はラジオにしても本にしても、常にマイノリティに寄り添った姿勢を保ち続けている。それでいて毒とエスプリを聞かせまくったセクシーな語り口を崩さないような所が本当に素晴らしいと思う。
私が黒人音楽の歴史に興味を持ったり、SIMI LABをきっかけにラップ・HIP-HOPを聴き始めたり、その他数えきれない程の音楽的な示唆によって世界を広がったのは全部菊地のおかげだ。
しかし彼は時々そういったマイノリティ側に自分自身を落とし込んでポジショントークを展開する事がある。今回はその典型。あと、学歴の話とかしはじめると「自分は高卒なのにこんなにすごいぞ」みたいな話をし始める。あれはちょっとどうかと思う。
ある菊地のアルバムのクレジット欄に「全ての権威主義にNO」的な事が書いてあったのを思い出す。彼はあらゆる活動でそれを体現出来ている、ミュージシャンとしても文筆家としても類希な人物だ。しかしそれが行き過ぎるとこのようなゆがみが出てきてしまう。町山とのやりとりによって、それが一層明確になったと感じた。
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結論②:俺はセッションを観に行く
町山は菊地の批判によりセッションを観に行く人が減ってしまう事を危惧していた。確かにセッションともうひとつ何か下らない作品でその日観る映画を迷っている人がいて、ふと菊地の批判文を思い出して「なんかだめって言ってる人いた」とか思ってセッションをやめる、なんて事があればそれは良く無いことかもしれない。
しかし、少なくとも俺は観に行く。今回のセッション論争によって観ざるを得なくなった。他にもこういう人たくさんいるんじゃないかな。この意味では、町山の目的は達せられたのでは。ほらね、権威でしょ。
結論③:世間の大半の人はセッションにもバードマンにも興味なし
さて、浅野忠信が批判したような「自称映画好き」にはたまらない論争だったわけですが、これが果たして現実世界にどのくらいの影響を与え得るのか。
これが現実です。
バードマン、もの凄い前評判の高さでしたが、映画に興味ない人には対しては関係ないということですね。
したがって社会全体からみれば、セッションについてちょっと論争が巻き起こったのなんて、フリーザの復活に比べたら何のインパクトもないに等しいという感じでしょうか。クリリンのエネルギー弾ぐらいのものですね。
「オイラは権威じゃない」「ワタシはマイノリティ」とか言ってないで、もっと威張り合って盛り上げてくれよ!!!
だからこそ、こういったコアな映画評論や言い争い・口喧嘩を「権威」である方達がもっと盛り上げていってほしいと思う訳です。
菊地が言う様に、「権威主義」は忌避すべきもの。しかし確かな「権威」が無ければ音楽にしろ映画にしろ衰退していきます。僕はそんなの嫌です。あなた達はもう権威なんですよ。これまで色々やられてきたんだろうけど、望むと望まざるとに関わらずだれかを抑圧する側なんですよ。そしてそれでいいんです。卵の側に立つのは春樹だけで良い。もっと上から目線で抑圧して下さい!俺が正統で正しいんだともっと言って下さい!!
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